「『なぜ 私だけが 苦しむのか 現代のヨブ記』H・S・クシュナー」を読む(序)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (同時代ライブラリー (349))
ヨブ記」は大学生のときに買って読んだ。努力しているのに結果が出ず,どうしてこんなに苦しいのかという自分のあまあまな苦しみを,受難のエピソードとして名高い「ヨブ記」で解決できないかと思ったのである。しかし,そのときには何も得ることが出来ず,友人たちに「ヨブ記,読んだ?」とかそーゆーインテリちっくなネタとして振るのに使ったくらいのものであった。あうあう。
最近読み直したときには,すごくスカッとした。ヨブが苦しまねばならない理由が理解できたからでも,神の意志が理解できたからでもない。ヨブの10分の1もヨブに起こったことをわかっちゃいない友人たちがわかったようにヨブを諭す言葉が,全て最後に否定されるからである。そう,正しいか正しくないかに関係なく不幸はふりかかってくるし,人が考える法則や所以なんてあてにならない。そこに勝手な意味をつけて人を苦しませる権利はないのだ。ただ,本人が本人の中でそれをどう位置づけるかは自由だ,そう思った。
この本はいわれなき不幸に出会った人のための本であり,その軸足がブレないよう誠実に書き進められている。いわれなき不幸に出会った人々が他人に責められ,自分でもその「罪?」を自ら認めてしまうことがままあるからだ。その苦しみの前に立ち,人びとを手を広げて庇っているような,そして先頭に立って人びとを鼓舞するような,そんな力強い声を読んでいて感じた。
著者は,最愛の息子が3歳のときに早老症*1で10代のはじめに亡くなると宣告され,「何故私なのか?」「何故,私ではなく,なんの悪いこともしていない息子にこのようなことが起こるのか?」という苦しみを身をもって体験する。そして,ユダヤ教のラビとして,そのような世界で神とどう向き合うのかについて示した本である。
今のところこの本は絶版*2だそうで,それもあって感銘を受けた部分をけっこう抜き出していくつもりだ。自分の感じたことを書くためであり,紹介したいということが動機である。続く。

*1:蛇足ながら大島弓子の漫画でもこの病が出てくるものがあったと思う

*2:昨今の状況を見ていると近い未来に再販される気はする