「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (同時代ライブラリー (349))」を読む (2)どうしてその人に不幸が起こったのか?

序(id:hayaminami:20041225#p2), (1)(id:hayaminami:20041225#p3)の続き。
犠牲者への他者の反応について,この本では以下のように述べている。

ドイツ語の心理学用語に,Schadenfreudeというのがあります。自分ではなく他人になにか不利益(Schaden)をこうむったときに,思わず安堵の喜び(Freude)を覚えて困惑することを意味します。自分は無傷なのに20メートルほど離れたところにいた仲間が戦死したという兵士,他の生徒がカンニングしてつかまるのを見ている生徒−彼らはべつに,自分の友人が災難にあうことを願ったわけではないのですが,災難が自分以外の他人にふりかかったことを,とまどいを覚えつつも喜ばずにはいられないのです。
(略)
犠牲者をこのように悪く言うのは,世界は見かけよりも住みやすいのだ,人が苦しむのはそれなりの理由があるのだ,と言って自分自身を安心させるためのひとつの方法なのです。それは,幸運な人たちが,自分たちの成功はたんなるまぐれ当りではなく,それにふさわしいだけのことをしてきたのだ,と信じる役にも立っています。この考えは,すべての人の気分を良くしてくれるのです−犠牲者を除いて。被害者のほうは,それでなくても不幸な出来事の極みにあるというのに,さらに人から非難を受けるという,二重の苦しみを味わうことになるのです。(P52)

『安堵の喜び』はもう本能みたいなものではないだろうか。それを感じたとて誰が責められよう。でも,苦しみの当事者でない人たちがそれを正当化しようとすると,おかしなことになってくる。
幸運な人による成功/失敗の法則は苦しみの中にある人を救わない。それどころか,自分にそのようなことが起こって欲しくない人びとによって,不幸な人は徹底的に叩きのめされることがある。しかし,事故に誰があうのか,1万人に1人が発症する病気に誰がかかるのかは確率に過ぎない。もし,確率ではなく,なにかの罰ならば,子供にどうしてそれが起こりえようか,そして,償うことも出来ない死のような,そこまでの罰を与える神をそうして称えられるだろうか。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)
このあたりについては,「ヨブ記」でもわかるように書かれていると思うので,そちらもお薦めしたい*1
続く。

*1:わからなかったのは最後のところなので