「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (同時代ライブラリー (349))」を読む (3)聖書から,大胆な結論を導き出す

序(id:hayaminami:20041225#p2),(1)(id:hayaminami:20041225#p3),(2)(id:hayaminami:20041226#p2)の続き。
ならば,そもそも神が「どんな解も導き出せる『全能』な存在」ではなく,人として自由であるままに人が苦しまないような解は存在しないのではないか,というのが著者の考えである。聞いてみれば日本人には親しみのある考え方かもしれないが,ユダヤ教のラビからこのような答えが出るのはけっこう驚きなのではないだろうか。だが,旧約聖書ヤコブの祈り等を引いて,それを述べ,そして神も共に怒り,苦しんでいると感じて良いのだという。困惑することも後ろめたく思うこともなく,状況に怒り,悲しみなさいと。

 私たちは,けっして実現することのない,夢のような期待を神に抱き続けるのではなく,神が実際に助けてくれることがらを求めて,神に目を向けられるようになります。結局のところ,聖書がくり返しくり返し語っていることは,貧しい人びと,夫をなくした妻,親を亡くした子供らをとくに擁護する者としての神であって,そもそもなぜ彼らが貧しくなったか,夫をなくしたか,親を亡くしたかの理由ではないのです。
 また私たちは,神が自分を裁いたり責めたりしているという不安に陥ることなく,自尊心と善を信じ続けることができます。神に対して怒っていると感じることなく,ふりかかった出来事に対して怒ることができます。そのうえさらに,自分の内にある不正への怒りや苦しんでいる人への本能的な同情を,神から与えられたものと考えることができるのです。神が私たちに不正を怒れ,苦しむ人と痛みを共にせよ,と教えてくれたのですから。憤りがこみあげてきても,神に逆らっているという後ろめたさを感じることなく,それは私たちを通して表わされた不公平に対する神の怒りだと思うことができるのです。私たちが泣き叫ぶ時にも,私たちは依然として神の側にいるし,神もまた私たちと共にいることを知るのです。(P61)

では,病気はなぜあるのか,痛みはなぜあるのか,ということについて,それは危険を死ぬ前に察知するためのシステムであるという。

痛みというのは,私たちが生きて存在するために支払う対価です。死んだ細胞−髪の毛や爪−は痛みを感じることができません。何も感じることが出来ないのです。そのことがわかれば,私たちの質問は,「なぜ苦しまねばならないのか?」というものから,「ただ無意味でむなしいだけの苦痛に終わらせず,意味を与えるために,私はこの苦しみにどう対処したらいいのだろう?どうすれば,この苦しい体験が産みの苦しみ,成長の痛みになるのだろうか?」という問いかけに変わっていくことでしょう。(P92)

痛みが生きる対価というと,自傷もそんなんかなと思う。生きながら体や感情が死んでいくような思いに対して,痛みを先払いして生を得てるのかなぁと。

「神は全能ではない」ということを,子供が小さいころは親を全能の存在と思うが,だんだんそうでないことを理解していく,ということに例えて述べている。しかしならばと思ってしまう。ならば,大人には子供の苦しみの原因がわかるように,もしかしたら神の視点からは理由がわかるのかもしれないと。もしかしたら「これがわかるようになれば苦しまずに済むのだが」などと大人が考えるように。しかしその一方で,子供の悲しみほど純粋なものがあるだろうか。子供が泣く時のあのひたむきさに,「それは子供のうちだけ」と微笑ましく思うこともあるが,一方で,その純粋さに胸が締め付けられる想いを抱くことはないだろうか。著者も,同じことを述べているのかもしれない。

私たちは,生命それ自体について説明できる範囲内でしか,死についても説明することができません。死を克服することはできませんし,延期することさえできないこともあるのです。私たちにできることは,「なぜ,こんなことが起こったのか?」という問いを超えて立ちあがり,「こうなった今,私はどうすればよいのか?」と問いはじめることになるのです。(P102)

だから,ユダヤ人にとって最大の悲劇と思われるホロコーストについても,神はヒトラーを悲劇の前に殺してしまわなかった。人間の善悪を選ぶ自由には立ち入らない。しかしそこにも,それでもなお神はいたのだと。

神は殺人者の側にではなく,犠牲者と共にいたと。しかし,人間が善を選ぶか悪を選ぶかを,神はコントロールしないのだと。私は,犠牲者たちの涙や祈りが神の深い同情を呼び起こしたであろうことを信じます。それにもかかわらず,人間に選択の自由を与えた以上,たとえそれが隣人を傷つける選択であったとしても,神には防ぐことができなかったのだと。(P121)

起きてしまったことは変らない。動くことが出来るのは人間だけだ。ならば,「私はどうすればよいのか」を考えていくしかない。では,なんのために祈る必要があるのか。