「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (同時代ライブラリー (349))」を読む (4)祈りとは

序(id:hayaminami:20041225#p2),(1)(id:hayaminami:20041225#p3),(2)(id:hayaminami:20041226#p2),(3)(id:hayaminami:20041227#p2)の続き。
道ありき 青春篇 (新潮文庫)泥流地帯 (新潮文庫)続 泥流地帯 (新潮文庫)
祈りについては,三浦綾子を思い出す。氏は奇蹟についてよく触れておられるように感じる。一方で,何度も大病を患ったり,大事な人を失う体験もしておられて,人の定めというか,ままならぬこの世界をよく知っていると思う。『泥流地帯*1』ではまさにそれが主要なテーマとなっており,彼女の答えはこの本にあると私は思う。
人のために人を作ったという聖書の言葉から,以下の詩が紹介されている。

 神よ,戦争を終結させたまえとは祈りません
自分と隣人のなかに
平和への道すじをみずから見いだすべしと
神がこの世を創られたことを知っているのですから。
 神よ,飢餓を救済させたまえとは祈りません
われらが知恵をめぐらせさえすれば
世界中の人が食べるだけの資源を
すでにさずけてくださっているのですから。
 神よ,偏見を放棄させたまえとは祈りません
われらが誤らないのでさえあれば
人はみな善であると見る眼を
すでに与えてくださっているのですから。
 神よ,絶望から脱出させたまえとは祈りません
われらが善政を行ないさえすれば
スラムに太陽と希望を充たすすべを
すでにさずけてくださっているのですから。
 神よ,病苦を根絶させたまえとは祈りません
われらが正しく用いさえすれば
治癒の方途を探求する知性を
すでに与えてくださっているのですから。
 ですから,神よ
ただ祈るのではなく
力と決断と意志をのみ
われらは祈り求めるのです。
(ジャック・リーマー『リクラット・シャバット』)(P173)

自分には,このような強さはないと思ってしまう。しかし続けて祈りは力を与えてくれるという。

勇気を求め,耐えがたい困難を耐えるための力を求め,失ったものではなく残されたものに心を留める寛大さを求める人たちの祈りは,かなえられることが多いのです。(P184)

結局のところ,楽をして,まわりの状況がよくなることだけ期待してても,何も変わらない。だが,一方で,楽をしたい人たちのような祈り方はしなくていいのだという。

精神力,希望,あるいは忍耐力を得るために,神にもの乞いをしたり,わいろを贈ったりする必要はありません。ただ神に心を向け,これは自分の力ではどうすることもできないということを認め,長期にわたる病苦を勇敢にも耐え抜いていくことは,人間性と神性の素晴らしい発現であるということを理解するだけでよいのです。(P188)

そして,よく言われる「苦しみに耐えられる人にだけ苦しみが与えられるのだ」という言葉にも囚われることは無いと著者は述べる。

苦しみに耐えるだけの十分な強さがその人に備わっているから,神はこのような重荷を与えるのだという常套的な説明は,まったくまちがっています。私たちに災いをもたらすのは神ではなく,巡りあわせです。それに対処しようとする時,私たちは自分の弱さを知ります。私たちは弱いのです。すぐに疲れ,怒り,気持ちが萎えてしまいます。どうすれば,これからの長い年月を耐え抜けるのだろうかと途方にくれてしまいます。しかし,自分の力や勇気の限界に達した時,思いがけないことが私たちの上に起こるのです。その時,外からの力によって強められる自分を見いだします。そして,自分は一人ぽっちではなく,神が共にいてくれるのだということを知ることによって,苦しみを生き抜いていくことができるのです。(P190)

論旨を進めてもこのようなことを明記しておこうという著者に,苦しみの中にある人こそを思いやるスタンスを感じるのだ。

*1:貧乏だが謙虚で働き者の人たちの部落が十勝岳大噴火の泥流に飲み込まれ,部落は壊滅,残った人々には死んだ土地が残った。そこからの復活の物語。ホント一言で片つけてしまうのはなんですが。