「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (同時代ライブラリー (349))」を読む (5)「人生とは」

序(id:hayaminami:20041225#p2),(1)(id:hayaminami:20041225#p3),(2)(id:hayaminami:20041226#p2),(3)(id:hayaminami:20041227#p2),(4)(id:hayaminami:20041228#p2)の続き。
そして,苦しみから歩き出し,テーマはより大局的な「人生とは」という問いについて,向かっていく。
ホロコーストの後,財産や家族を得たが,再度山火事で全てを失ったマルタン・グレイという方の生き方を紹介する。

人びとは,火災原因の調査を要求するように彼をせきたてましたが,彼はそうするかわりに,残された自分の財産を投じて,このような火災から自然を守るための運動を始めたのです。
 そのことについて彼は,調査や究明は過去に目を向けるものでしかなく,痛み,悲しみ,非難しか生み出さないと説明しています。彼は未来に目を向けたかったのです。調査に乗り出せば,だれかを責めることになりますし−「だれの不注意だったのか?だれの責任なのか?」−人を責め,悪者を見つけ出そうと企て,自分の悲しみの責任者を告発することは,孤独な人間をより孤独にすることでしかない,というのです。人生は,なにかに敵対して生きるべきものでなく,なにかのために生きるべきものなのだ,と彼は結んでいます。
 私たちもまた,過去や苦しみに焦点を合わせる問い−「なぜ,この私にこんなことが起こったのか?」−から脱却し,目を未来に向ける問いを発すべきです。「現状はこうなのだ。私は,これからなにをすべきなのだろうか」と。(P202)

また,他人の人生,断ち切られたような若き死,いわれなき死で終わった人々の人生は生き残った者の生き方次第なのだと,ドイツの神学者,ドロテー・ゼレの言葉から述べている。

生と死それ自体は善でも悪でもない,中立的なものです。苦しみに対してどう反応するかで,苦しみに積極的な意味を与えることもできるし,否定的な意味を与えることもできるのです。病気,事故,悲劇は人を殺します。でも,人生や信仰まで殺されてしまう必要はないのです。愛する者の死や苦しみのために,私たちが意地悪で,嫉妬深く,あらゆる宗教に敵対し,幸せを知ることのない人間になってしまうとしたら,“私たちは”その人を「悪魔の殉教者」のひとりにしてしまうのです。親しい人の死や苦しみを通して,私たちが自分の力や愛や快活さの限界を切り開いていき,以前には知らなかった慰めの根源を見いだすなら,“私たちは”その人を,人生を否定する者ではなく,人生に対する確信を証しする人にするのです。(P204)

世界の中には喜びと苦しみ,生と死が存在している。

最善ばかりを求めて悲しい出来事をいっさい拒否する生き方と,悲しみを人生の営みのなかでとらえ,失ってしまったものに心を奪われることなく,自分のなかの豊かにされた部分に目や心を向ける生き方との間には,決定的な相違があるのです。(P207)

それは分かちがたいものなんじゃないかと私は思う。だから,悲しい出来事を拒否しようとすれば,喜びをも失ってしまうのではないかと。そして,その世界のありようは変わらなくても,神は共に苦しみ,人に働きかけているのだと著者はいう。

悲惨な出来事を起こすことも防ぐこともない神は,人に働きかけ,人を助けようとする心を奮い立たせることで,私たちを助けているのです。(P208)

そして,哀しみから顔を上げ,まわりの人々に目を向けることが,難病に立ち向かう医師,人々の生活を助ける製品を生み出す技術者,危険な場所へ身を投じるレンジャー,同じ苦しみをわかちあうボランティアなどの行動として世界を進歩させているのだと思う。
最後に,著者は以下のように述べている。

失望させられる不完全な世界,こんなにも不公平や残虐,病気や犯罪,天災や事故の多い世界を,あなたは愛をもって赦し,そして受け入れることができるでしょうか?そんな世界の不完全さを赦し,それでも大いなる美と善があるのだからと,これが自分にとって唯一の世界なのだからと,愛することができるでしょうか?
 あなたのまわりの人びとが,その不完全さのゆえにあなたを傷つけ失望させたとしても,あなたは彼らを赦し,愛することができるでしょうか?完全な人間などどこにもいないのだし,愛せないなら孤独になるだけなのだからと,あなたは不完全な人びとを赦し,愛することができるでしょうか?
 神は完全でないと知った今でも,あなたは神を赦し,愛することができるでしょうか?不運や病気や残虐が存在する世界を創り,それらがあなたをおそうのを防ぐことができない,傷つけ失望させる神を,あなたは赦し,愛することができるでしょうか?あなたの両親はあなたが必要とするほどには賢くも,強くも,完全でもありませんでしたが,あなたは彼らを赦し,愛することを知りました。そのように,あるいはヨブのように,限界があるにもかかわらず,あなたは神を赦し,愛することを知るようになれるでしょうか?
 もし,あなたにそれができるならば,赦すことと愛することは,完全には多少欠けるところのあるこの世界で,私たちが十二分に,勇気をもって,そして意味深い人生を生きるために,神が与えてくださった武器であるということがわかるのではないでしょうか。(P219)

深い河 (講談社文庫)
(1)(id:hayaminami:20041225#p3)において「沈黙」を思い浮かべたのだが,なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (同時代ライブラリー (349))は80年代に出ているし,遠藤氏は研究熱心だから,遠藤氏は読んでいたのではないかと思う。そして『深い河』にも影響を与えたのではないかと想像する。『神は働きです』という大津の結論に。

「ぼくはそれ以後,思うんです。神は手品師のように何でも活用なさると。我々の弱さや罪も。そうなんです。手品師が箱のなかにきたない雀を入れて,蓋をしめ,合図と共に蓋を開けるでしょう。箱のなかの雀は真っ白な鳩に変って,飛びたちます」
「神は存在というより,働きです。玉ねぎは愛の働く塊りなんです」(深い河)

いろいろな自分が好きな本と,そのどういうところが好きだったかを思い出せて良かった。
この本の感想を書くのには,どのようにして扱いが難しいテーマを納得したのかについて,実際の言葉から伝えたいという気持ちがあり,長く引用した。実際の本では,具体的な例やより丁寧な流れで,苦しみの中にある人を思いやるように話が進められている。もし,心に留まる部分があったのであれば,図書館や古本で是非読んでみて欲しい。